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アドラーなスマートシニア活動記

嫌われる勇気と幸せになる勇気を持ちたいエコピープル 福祉住環境コーディネーター Miketoyの85点人生のライフログ

テキスト中心主義では通じない

「学ぶ」には、体験を通して学ぶ、モデルを通して学ぶ、ことば(テキスト)を通して学ぶと、大きく分けて 3つの方法がある。体験のできることは素晴らしいのだが、その機会は限られているだろう。その体験を一般化するのは、また知識がいる。また、身近なところに適当なモデルがあるとも限らない。それらの体験や観察過程の多くは、テキストになり得る。やはり、良くできた評価の高い書(ことばで書かれたテキスト)を中心に座学で知識を学ぶのが基本だと私は思う。映像を主とするビジュアルで学ぶことは理解を助けるし、私も活用している。ただ分野にもよるのだろうが、あくまで補助的な使い方ではなく、メインにはなり得ないかと思っている。

テキスト中心主義ならば、そのテキストを読めばわかるだろうと思う。昔の学生はそうだったかもしれない。しかし、試験をすると全くわかっていないことがわかる。だから、わかりにくいと思われることを、できるだけくだいて授業の中でわかりやすく説明しているつもり(でも、通じているかはわからない)。全体像が見えないとわかりにくいだろうから、毎回全体図においての位置づけを示してから始めるのだが、それでもわかってもらっているかどうかは怪しい。

わかる人には、私の授業は必要ない。わからない人には、意味があるのだと思うが、そういう人は出席していなかったり、私の授業に上の空であったりする。私の教え方が上手くないせいもあるのだろうが「私の授業」は存在価値はないのだと思って、毎度無力感を感じる。もしかしたら、私自身がズレた無意味な試みをしているのではないか? という感を持つことは少なくない。また、わからない時に質問ができる場があるというのは、素晴らしい機会なのだが活用されない。今では、彼らと思考回路が異なるのだろうと、しかたないことと諦めている。「通じないこと」これは、私が大学教師に限界を感じ、いっそのこと辞めてしまおうかと時折思う最大の理由である。

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