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アドラーなスマートシニア活動記

嫌われる勇気と幸せになる勇気を持ちたいエコピープル 福祉住環境コーディネーター Miketoyの85点人生のライフログ

数少ない心通う時

教師をしていて学生と数少ないながら心の通う時がある。それは4年生との今頃のひと時。大学にもよるが私のところでは卒業論文は必修科目なので、合格しないと卒業できない。それまでに3年の後半から卒論指導として、テーマの絞り方から、論文の作法などをそれまでに何度も教えている。テーマは自由としているのだが、安心してしまうのか、進捗は芳しくない。そこでは、論文はレポートとは違うこと、テーマについてまとめるだけなら卒業レポートでしかないと、必ず「主張」を明確にせよと言う。しかし、テーマ自体も曖昧な範囲のままの状況が続き、主張はまずでてこない。

そんな上の空だった卒論が、締切の2ヶ月前、お尻に火がついた12月から1月上旬の追い込み時が、その関係の相談の多くなり、やっと本気になってくる。多くの大学では、より早いペースで進めていると想像するが、私の周辺では学生の腰が上がるのは遅い。5月頃には仮の卒論テーマが確定したはずなのだが、調べていくうちにこれではやはり書けないと、10月に別テーマを持ってくる学生も少なくはない。それが突貫工事でのギリギリ変更可能な時だ。この間、夏休みも含めての活動報告はしてもらっているのだが、私には、何を今までやっていたのだ、ほとんど進捗ゼロではないか! とすら見えることも多い。卒論生とは数年のお付き合いがあるから多少の人間関係はあるものの、待っていても卒論は決して外野(私のこと)が代筆してくれるものではないと気づく時でもある(笑)。 

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photo by Intrepidteacher

 

弱いと思われる点はこの時点で少なくとも5つくらいあるかな。1つは頭の中が整理されていないこと。テーマとテーマ外の境界が明確でないので、論文での守備範囲内外がごちゃごちゃで、テーマが絞りきれないボケたものになっていること。そのための専門的知識とまでいわないものの、基本知識、新聞等も読んでいないので最新情報を含めた周辺情報の絶対量が少ないことが2番めだ。

とりあえず決まった卒論タイトルに関して、いろいろと問いかけをする。すると、多くの場合に学生は言葉につまる。「ひょっとして、こういうこと?」と助け舟を出す。すると、「あー、それそれ」という。語彙が少なく、表現力が未熟なのだろうと思うことが3つめ。どういう論文の構成にするかも問題だ。論文のストーリーというか、筋書きが重要なのだが、それも書けないことが4つめだ。手持ちの調べた材料で、代わりに、「こういう論理構成にすれば主張できるのではないの?」というと、またまた、「それそれ」で終わる。その状況では、卒論タイトルは全く変わったものになってしまう可能性がある。5つめは、「で、この論文での結論は一言で言うとどうなの?」でまた曖昧に背景ばかり長々と話す。しびれをきらして「結論は?」と聞くがでてこない。これも、「これが結論では?」というと、もちろんまた「それそれ」だ。


援助なしには「論文」らしい形に収束していかない。詰めは当然甘いし、これから書き出すとまた執筆時点での異なる別の困難に直面するだろうが、初めての事なのでしかたないだろう。どんな立派な研究者でも、最初はそうだったはずだ。
論文を書くのは初めてで最後の機会かもしれないが、それで良い。卒論は所詮、「論文入門」の実践授業のようなものだ。世間的に通用する論文でなくても、苦労して論理的な文章を書く、おそらく彼らにとっては数少ない思い出、財産となるはずだ。

私の出すヒントで、論文の筋書き、結論に対する見通しに対する方針に関して合意がつけば、残された時間で何とかなりそうだと "見極めOK" を出す。そうして、彼らはホッと安堵したように笑顔を取り戻す。その瞬間が教師としても喜びを感じられる時である。その時に、私も彼らが「何をやりたいのか」をその時にやっと理解する。後の形として仕上げることは彼らの課題だ。頑張って規定の枚数を仕上げてくれれば、その後にその文章に朱を入れる。そうすれば一月末の卒論締切までには間に合うだろうとなり、やっと一体感を持てるのだ (でも、これからWiki問題を含めた別の問題がでてくる(笑))。

 
「目標の一致」することなしに共同作業は成り立たない。それは、親子関係でも同じである。親は子に、将来のために力をつけてもらいたいと学校に委ねる。子は、単位さえ取れれば良いと思っているかもしれない。教師と学生の関係でも同じで、今までは「目標の一致」は極端に言うとない。
論文を書かねばならない、書くことを支えることで共同作業をしている時が「目標の一致」のできる私にとって唯一の機会である。他者との「目標の一致」の機会は今までは少なかったろうが、社会人となると多く直面せざるを得なくなっていくことだろう。