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アドラーなスマートシニア活動記

嫌われる勇気と幸せになる勇気を持ちたいエコピープル 福祉住環境コーディネーター Miketoyの85点人生のライフログ

日常的気づきを誰に言うか

Sunday morning in Piazza del Popolo, Nov 2009 - 46
気軽な雑談というのが得意ではない。昼休みの食事時とか、食後の昼休み時間、会議の間の小休止時間などである。最初のうちは良いのだが、そのうち会話もだれてくる。会話では大したことは言ってはいないが、そういう場に入っていかないと、あいつは得体の知れない奴だとか協調性がないとかきっと言われるので、そこそこは参加する。でも、居心地があまり良くないし、ある意味ではストレスにもなる。例えば、週末にどこに行ったとか、あの店はこうこう、その程度ならまだ良い。あの人はどうのと同僚の噂話に発展することもあり、ちょっと待ってと言いたくなる(が、言うことはない)。関係のない芸能人のうわさ話なども御免被りたい。他者より少しでも早く知りたい情報通はどこにでもいるものだ。人事案件や人を裁くゴシップ的話題が好きな人は多い。私も気にはなるのでシェアしたくなる衝動に駆られてしまう側面もあるが、基本的には黙って孤独で仕事をし、早く家に帰るのを好む。

私は人間嫌いというわけでもないのだが、さほど好奇心も旺盛ではないし、そもそも周囲の人がどうこうしていようがさして興味がないのだ。身内でも同様だから、冷たい人間と見做されるのだろう。でも、「他者の関心」は何かは知りたい。それだけで十分で、関心の “中身” 自体にはさほど興味はない。だから、それ以上の深い話を必要以上にしたくはない。

アドラーを謳っているものの、それで十分なのかどうかは疑問だ。もっとアドラーを極めている先達の判断に委ねなければわからない。もし不適となっても、ブログの説明での看板は、目指しているとしか言っていないから付け替える必要もないだろうと思っている。

 

休み時間はもっと短くて良いから一刻も早く職場から離れたいなんて言うくらいだから、不特定多数の人の集う老人ホームで戯れるのは居心地が悪くてダメだと思う。若かりし頃には、学寮やユースホステル、病院などの二段ベッドの4人の共同空間に良く寝泊まりしていたものだと思う。今はさらに天然で偏屈になっているから、どこに行っても必ずや嫌な奴に巡り合うに違いない(笑)。

波長というか、見ているものが異なっていると会話はチグハグになり楽しくない。私は気づいたことは、妻と少しだけシェアするだけで十分である(その存在に感謝しなくてはならない)。シェアの必要性を感じない時の方も圧倒的に多くもあるので、家は至って静かであるが。

シェアしたい内容があったとして、果たして何人にも同じ内容をシェアしたいだろうか。例えば、昨朝の北朝鮮のミサイル発射、これは酷いね、私は1回で十分だ。高給取りのNHKアナウンサーが同じメッセージを何十回と繰り返し連呼するのを聞くと、アホかと批判したくなる(もちろん、詳しいことがわかった時点で知りたいが)。日常的気づきを職場でシェアしたがる人は、家でシェアしようにも聞いてくれる人がいないからかも?とも思う。みんな互いに何度聞かされても忘れあう関係なら、永遠に話の弾む認知症高齢グループホームが老後には良かろう(笑)。私もそれで良い。