私が勝手に師として尊敬しているのが、「ちきりん」さんだ。Twitterは、極端に言うならば彼女の発言を聞くだけのために しているようなもの。そのツイートに次のようなものがあって考えさせられた。
自由に生きるのは、あたしの人生のテーマなのでね。→ http://t.co/w56Lnr6F5g でも、自由に生きるのって簡単じゃないんだよね。昔はお金や家族が制限要因だと思ってたけど、そうじゃなかった。 https://t.co/mVBGgTGjH4
— ちきりん (@InsideCHIKIRIN) October 8, 2015
既に実現できているものも、容易に実現できるものも「人生のテーマ」にはならないだろう。生涯とりくむライフワークと似たようなものだろうか。
さて、問題は私の人生のテーマとは何なのだろうなということだ。ちきりんさんとは波長が合うので、私の場合も「自由に生きる」ことは、かなり近い。しかし、彼女ほど自由へのこだわりはなく、状況によっては不自由でも良しという感じだ。
妻は「自分の好きなこと、その向上」を中心に生きるようだ。私はそれとも違う。そもそも、自分の好きなことがそんなにない。
タブレットのような ITガジェットものは好きではあるが、なくてもOKだ。今のタブレットのレベルで十分に満足で、かなり完成系に近いものの、その領域へは一人のユーザーとしてしか関与できないので深みにおいても不満だ。
世の変革も、非力な私の力ではムリと悟っていて外野的に評論するだけの遠い世界である。
いずれの分野においても「人生のテーマ」にするには、中途半端感がある。「身の回りを合理的に管理して生きる」ことは近いかなと思う。自らのエンディングも、周りの人間関係も、家もガーデニングも、自分の人生で何を選んで、コントロールしていくということかなとも思うが、違うかもしれない。
私の人生のテーマとは何だったのか、この機会に少し考え続けてみよう。それはアイデンティティであり、私のブログの説明に相当する欄である。今は「2016年3月サラリーマン生活リタイアに向けたエコピープル ☀ Miketoyの85点人生のライフログ」としているように表層的なものだ。一言で核心を言いきれるような「テーマ」としたいものだ。